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オールドメディアの死活問題

自民党のサイトをみると会見についてはいずれも動画と書き起こしの文字を表記するようになっている。

こうなってくるとじゃーなりすとの方々は切り抜きや編集、たとえば発言者を明記しないことにより、言った側がどちらかわからないようにして、バレた時はそういう捉え方をする方に問題がある、双方誤解があったなどとといった、長年培われてきた論理のすり替え法や偏向報道編集技術が使えなくなるではないか。

これではじゃーなりすとや大越は次の世代に、せっかく育ててきた荒技を伝承ができなくなる。
ダッチロールの絶妙な角度とか、あいまいにする方法などの数々の伝統芸が歴史の中に埋もれてしまう。

これこそ民放や大新聞社やけんすけは自民党に、報道編集の自由について大々的に抗議すべきである。

オールドメディアとけんすけはいま死活問題に直面している。
自認賢者の代表なら、このピンチをはやくチャンスにかえろ。

老害で終わるか、けんすけと言われてバカにされるだけで、晩節を汚すか。
その人生は楽しかったのか。

道徳経済合一

「道徳経済合一」とは実業家、渋沢栄一が唱えた「道徳と経済は本来、両立するものであり、一体となって進むべき」という思想のことである。
今資本主義が終わろうとしているらしい。
また倫理を中心にすえた、倫理資本主義の時代にきたという説もある。

経済学者のヨーゼフ・シュンペーターは資本主義はイノベーションが常に必要で、イノベーションは長期展望でしかでてこないから、短期的な合理主義、いわゆる短期での損得では結局イノベーションをするための準備ができず、見た目の合理主義ゆえに資本主義はやがて滅びるといっている。

経済活動に誠実さや社会貢献の精神を組み込むという道徳心は非常に家族主義的でかつ短期にみたときには非合理である。
シュンペーター的な経済史観が渋沢にあったからこそ、企業活動での社会的な責任を果たすことが必要であると説いていたのだろう。

これは道徳は素晴らしいというお花畑な話ではなく、道徳という長期展望ですすめないと結果的に資本主義は自己矛盾を起こし、失敗するという話である。

客を蔑ろにしているラーメン屋がいろんな言い訳があるにせよ、道徳とは程遠く、結局は客に愛想をつかれ、次々と潰れていくというのもそのあらわれかもしれない。

ファミリーモーティブから考えるマクロ経済

ファミリーモーティブ(家族動機)がもう何年も前から崩れている日本が巻き返しえるのか。

会社は家族だという感覚から、合理主義だ、退職代行だという昨今の日本ではイノベーションは起きようがないのでマクロレベルの巻き返し、パックスジャポニカはあり得ないと考えるしかない。
ヨーゼフ・シュンペーターの言っていた通りにだいたいになっているので、再度、会社は家族だという日本式経営に戻るしかなさそうだが、もう無理か。

デマンドプル・インフレとコストプッシュ・インフレ

インフレには2種類ある。
デマンドプル・インフレとコストプッシュ・インフレである。

デマンドプル・インフレは需要側が物価を引き上げる形となって物価が持続的に上昇する現象をいう。
供給が需要においつかないことで起こる物価高騰をさす。
品不足の状態なので、企業は価格を引き上げやすくなる。
消費者は総じてお金を持ち余している状態で、
多すぎるお金が、少なすぎるモノを追いかけるとよくいわれている。
主にバブルの時に起こるインフレである。

コストプッシュ・インフレは供給が縮小もしくは制限がかかることでおこる物価高騰をいう。
主に災害や戦争などが原因で、エネルギー価格や原材料価格が上昇し、人手不足による賃金の高騰などで、製品やサービスの価格に転嫁することで物価が上昇する。
賃金が上昇しない状況で物価だけが上昇する「悪いインフレ」である。

インフレの種類によって当然対策がかわってくる。
インフレだからといって、銀行が金利をあげればいいというわけではない。
コストプッシュ・インフレに関しては中央銀行ができることはほとんどない。

インフレがこの2種類のどちらかというわけではなく、今の日本は(2025年10月時点)主にコストプッシュ型とされつつも、徐々にデマンドプル型の要因も混在する「複合的なインフレ」と見なされている。

コストプッシュ型の要因(主因)である、円安での輸入物価の上昇とエネルギー・原材料価格の高騰、食料品価格の上昇は個人ではいかんともしがたく、政府の対応にまかせるしかない。

生鮮食品を除く消費者物価指数の上昇率は2025年になっても2%を超えている状態なので、当初の目標インフレ率は達成している。
ただ、日銀が目標とする「持続的・安定的な2%の達成」については、依然として不確実性が残るとされているので、安心はできない。
個人としてできることは賢い消費をするということと、デザイン屋としてはもっと景気を回させてくださいということだ。
もちろん、無駄なものはつくらない、というのがデザイン屋の使命としては肝に命じなければいけない。

25分仕事をして5分休憩

中華民国(台湾)の政治家、オードリー・タンは25分仕事をして5分休憩を繰り返しているそうだ。
こうすることによって集中力を絶やさないそうだ。
これはいわゆるポモドーロ・テクニック(イタリアのフランチェスコ・シリロ氏考案)といわれていて、いろんなところですでに実践されているようだ。

私もkING JIMのVBT10を手元において真似している。
成果がでているかどうわからないが、アクションは大事だ。

https://www.kingjim.co.jp/sp/vbt10/

本のルッキズム

なぜ本の表面をツルツルにコーティングするのだろう。
ほとんどの本はツルツルコーティングしている。
積んでいくとある程度で滑って崩れる。
ちょっと斜めになっても崩れる。

コーティングしていなければある程度耐えて崩れにくくなる。
結果、エントロピーが上がらずエネルギーを投入する必要もなくなる。
コーティングした方が高級感がでるとか、売れるとか、しみがつきにくくなる、痛みにくいということなのだろうか。
そういう商業主義でルッキズムがほとんどメインであるという現実はとても嘆かわしいことだ。
豪華本やそういうルッキズムを目的にした本だけ、コーティングをすればいいのに、残念である。

昭和の手法

KITTE大阪の鳥やさんで食事をしながら談笑をしていた。
お店のかなり大きいBGMのせいで、狭いテーブルの向かい側の相手の声が半分聞こえなかった。

選曲も騒々しい高音の曲ばかりだ。
客の回転率を上げたいのがバレバレである。
嫌気がさしてほどなく退店した。

令和7年の後半になってもまだその手法を使っているのかと逆に感心した。
案の定、どんどん客が消え、私がでるころには50席ほどの客席の半分いたのが2人くらいまで減っていた。
それでも事情を知らない客がまた入るので、とりあえずこのお店にはまた客ははいるだろう。
そんなに回転率にこだわるのなら、お一人20分までと入り口に張り紙をしたらよい。

もしくはヘビメタをかけるのはどうだろうか。
別の客層がきてくれるかもしれない。
いつまで昭和の卑劣な手法をつかっているのだろうか。

ホワイト社会はもう始まっている

あるSNSの投稿によると、投票所に子供をつれてきたヤンママが見知らぬ老人に、子連れはマナー違反だいわれたらしい。
こういう倫理や道徳の規定は習慣でつくられていくもので固定的ではないから、一概には何が正しいか決め難い。

それよりもその老人はどういう感覚や前提でマナー違反だと言ったのかが気になる。

子供(5歳児らしい)は走り回って大声を出したりしていたのだろうか。
それはしていないようなことも書かれていたので、そもそも連れてきたことに対してその老人は腹を立てているのだろうか。
子供はこの投票所で問題を起こす可能性をもっているので、連れてくることは非常識であるということと推察したらよいのか。

しかしながら投票所の規定はその逆で、教育上、子供のころから投票所にいきなれることは推奨されている。
ということは一般的にはこの老人の考えは間違っているということになる。

さて、これをAIで尋ねても当然ネットで見解を集めてくるので、子供を投票所に連れて行くことはマナー違反どころか推奨されていますと回答してくる。
AIがますます身近になっている今、スマホのAIでどっちが正しいのかをその場で確かめられるから、この老人の意見は少数派で異端扱いとしてバッシングされることになるだろう。
実際バッシングされている。

いろんなことが曖昧だったから助かっていた彼らの常識はこれからはそうもいかなくなってくる。

もう始まっている、いわゆるホワイト社会は不届きものへのバッシングはもちろん、旧世代のずれた感覚の持ち主にも容赦はない。
YOUTUBEの「トラブルバスターズ」の常連敗者のおっさんのように、追い詰められて終了ということになるので、常に倫理観や常識はバージョンアップする必要がある。

曖昧な倫理規定のせいで経済がまわらないのではないか

エイジング・ブーマーが消費のリーダーだといわれてもう20年以上になる。
言われ出した時にはまだSNSがほとんどなかった。

エイジング・ブーマーが世帯全体での支出額が高いものの、一人あたりの消費では若年層にはもう及ばなくなっている。
20代から30代の消費が「推し活」というかたちであらわれているということは経済界では常識だ。
どうやって熱狂的なファンになってもらえるかという取り組みが企業の中でもうすでにおこなわれている。

その逆は嫌われることをすべきではないということになる。
嫌われることとはなんだろうか。

嫌われることのひとつに正義に反する行為というのはないか。

この辺りはとっくに社会生態学者のピータードラッガーが予言してきたことで、やっと現実的になってきたような気がする。
正義はそんなに大きいことではなくて、倫理に反するようなことはするなという当たり前のことだ。
これは本当は明文化をした方がよいようにおもう。
それくらい倫理があいまいになっている。

世の中の正義のためというのもあるが、もっと現実的な話として経済が回らない原因に反倫理があるのではないかということだ。
倫理的な判断はもうAIがしてくれる時代なので、AIの倫理にも及ばないとなるとあとは自明の理だ。

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