AI共生時代の「パワーナップ × 肺活」戦略

多くのビジネスパーソンがチャットGPTなどの生成AIツールを画面に立ち上げ、マルチタスクに追われる日々を送っている。
リモートワークの普及によって業務が効率化する一方で、私たちは常に押し寄せる情報と、AIが瞬時に弾き出す無数の選択肢に対する「即座の意思決定」を迫られている。
しかし本来、人間の脳は一つの作業にしか集中できない「シングルタスク」の構造をしている。
それにもかかわらず、無理にマルチタスクを行おうとするからこそ、脳は激しく疲弊する。
私たちは複数の作業を同時にこなしているように見えても、実際は「シングルタスクの切り替えスピード」を極限まで上げ、その「切り替え回数」を過剰に増やしているだけに過ぎない。
これでは脳のエネルギーが急速に消費され、疲れてしまうのは当然である。

この実態は認知神経科学では「タスクスイッチング」と呼ばれ、脳へ過度な負担がかかるメカニズムは科学的に証明されている。
脳が別のタスクへ移る際、前の作業の記憶を処理し、新しいルールに頭を切り替えるステップを踏むが、この時に発生する精神的負荷は「スイッチングコスト(切り替えコスト)」と定義されている。
アメリカ心理学会(APA)などの研究によると、この頻繁な切り替えによって脳のエネルギー源であるグルコースが急激に消費され、生産性が最大で40%も低下することが実証されている。
さらに、前頭前野などの脳の制御領域に過剰な負荷がかかり、認知疲労が引き起こされるのは当然の帰結なのである。

この圧倒的な「動」のデジタルビジネスシーンで、人間のパフォーマンスを最大化するための鍵として注目されているのが、わずか20分ほどの積極的仮眠「パワーナップ」という「静」の時間である。
最先端テクノロジーであるAIと、人間の原始的な欲求である睡眠は一見対極にある。
しかしこれらは、現代の知的生産性を支える表裏一体のパートナーである。
AIは、人間が数日かけるデータ分析や資料作成をほんの数秒でこなす圧倒的な効率性を持っている。
しかし、そのAIを使いこなし、出力されたデータから事業の突破口となるクリエイティブなひらめきを生み出すのは、依然として人間の脳である。
頻繁なタスク切り替えによって擦り切れた脳では、AIのスピードに追いつくことも、イノベーティブな問いを立てることもできない。
そこで、パワーナップが重要な役割を果たす。
午後一番のデスクワークやオンライン会議の合間に行うわずか15〜20分の短い仮眠は、酷使された脳内のキャッシュメモリをクリアにし、論理的思考力や集中力を劇的に回復させる。
AIという強力な「動」のツールを乗りこなすために、脳を意図的に「静」へと導くメンテナンスが必要不可欠なのである。
さらに近年では、この2つが融合した具体的なライフハックガジェットもビジネスの現場に浸透しつつある。
Oura RingやRingConnに代表される最新のスマートリングは、指先から自律神経のバランスや疲労度をリアルタイムで検知し、脳が最も休息を必要とする「最適な仮眠のタイミング」をタスクの合間にピンポイントで通知する。

また、通知を受けた人間が、振動や温熱、骨伝導音楽で迷走神経を刺激する最新デバイスのVagal Healerや、エアロフィットといった呼吸トレーニングデバイスを使い、「肺活」などをして身体を調整し、副交感神経を優位に切り替えてから仮眠に入る。
この肺活により、デスクワークやタスクの連続で浅くなりがちな呼吸が深まり、酸素が脳の隅々まで一気に行き渡る。
結果として脳内の酸欠状態が解消され、短時間でも劇的な疲労回復と、目覚め直後の高い覚醒度を得ることができる。

AIが人間の身体データを学習して休息を最適化し、人間側が自律的にコンディションを整え、その結果リフレッシュされた脳でさらに高度なAI活用を行うという、洗練された共生関係がすでに始まっているのである。

テクノロジーがどれほど進化しても、人間の身体や脳が持つ生物学的な限界が消え去るわけではない。
AIにすべてを委ねて走り続けるのではなく、AIガジェットの力を借りてパワーナップを習慣化し、自らの脳を賢く労わること。
この「静」と「動」の調和を主体的にコントロールすることこそが、AI時代を豊かに、そしてクリエイティブに生き抜くための新しい知性と言えるのではないだろうか。

有事にフリーズする日本――「ルールという盾」を捨て、評価を変えよう

殉職した消防士の娘の卒業式に同僚が集まる動画に見る、理屈抜きの圧倒的な連帯感。
こうした個人の尊厳を「社会全体の家族」として包み込むアメリカの熱量に比べ、前例や形式論が先行しがちな日本は、現代の危機管理において劣勢にある。

長引く不景気や人災、自然災害が頻発する「有事」の現代、日本の組織は想定外の事態に、ルールや責任論を優先してフリーズしやすい。
日本人が「有事」に対応できない理由は、団結力が決められたルール下でしか機能しないからだ。

変化する現実に合わせて「OODAループ」を回すには、表面的なルールは柔軟に変形すべきである。
この有事を生き抜き、組織を底上げするためには、OSである「評価方式」を刷新しなければならない。
減点方式や前例踏襲の呪縛を即刻やめ、「行動した結果の失敗」は問わず、逆に「前例がないからと行動しなかったこと」を最大の減点対象とする。

達成目的のみを示し、手段の決定権を現場に委ね、挑戦を「ナイス・トライ」として評価・保障するセーフティネットを明文化する。
評価という生々しい制度をドラスティックに変えることでしか人の行動は変わらない。
ルールという盾に隠れる平時のマインドを捨て、個々の野生の判断力を解放することこそ、有事を突破する真の強いチームへの道である。

にゅ を にゃ にするだけ

スニーカーの側面で独自の存在感を放つ「にゅ」のひらがなロゴ。その文字を「にゃ」に変え、猫の足跡を添えれば、全国の猫好きを巻き込んで絶対に売れる。
可愛さと熱狂的な購買力を掛け合わせた、最強のマーケティング戦略についての提案です。

ひらがなの魅力と限界

サンガッチョが手がける「にゅ」のスニーカーは、そのシュールで愛らしいひらがな一文字のチョイスが最大の特徴だ。
街で視線を奪う絶妙なデザインは、個性を愛するファッショニスタの心を掴んで離さない。
しかし、ここで一歩進んだ発想をしたい。
右を向いても左を向いても「にゅ」である。
この愛嬌を、さらに一段階上のステージへ引き上げる方法がある。

「にゅ」を「にゃ」に

そう、すべてを「にゃ」にしてしまうのだ。
ロゴの「にゅ」の点をちょっと調整し、小さな「ゃ」を寄り添わせる。
それだけで、スニーカーの表情は一変する。
靴紐の先端には小さな肉球、かかと部分にはこっそりと猫のシルエットの刺繍を忍ばせる。
文字の並びが変わるだけで、無機質なストリート感に、愛らしさが宿る。

猫好きの力を侮るな

猫好きの消費エネルギーと結束力は、もはや一つの経済圏だ。
「にゃ」のスニーカーが世に出た瞬間、SNSには「#にゃスニーカー」のハッシュタグがあふれ、全国の猫ラバーたちが「全色買いした」「猫とお揃いだ」と歓喜の声を上げるに違いない。
可愛いものと猫のためなら財布の紐が緩む、その熱量を侮ってはいけない。

たった1文字変えるだけで全てが変わるものだ。

コミュニケーションデザインが変える地域モビリティの未来

プロダクトやサービスの価値は、対象のサイズを最適化し、それをユーザーへ適切に伝えることで劇的に向上する。
山形県鶴岡市と庄内交通が取り組んだ市内循環バスの再編は、ハードウェアの「サイズ設計」と、住民に寄り添う「コミュニケーションデザイン」の融合により、低迷していた公共交通を再生した見事な一例である。

従来の大型バスは、日本の地方都市特有の狭い生活道路への進入が難しく、本当に移動手段を必要とする高齢者の多い住宅街をカバーできないという構造的な課題を抱えていた。
そこで行われたのが、運転手を含めて10人乗りの車両へと舵を切る「ダウンサイジング(小型化)」というアプローチである。

この大胆なサイズ変更により、これまで進入不可能だった狭隘なエリアへのルート拡大が可能となり、結果として新たなバス停が20か所以上も増設された。
さらに、この再編では視覚的・機能的なデザインの工夫が細部まで施されている。
車体を鮮やかな黄色へと刷新したことで、従来の白基調の車両で頻発していた「介護車両との誤認」をスマートに解決し、街なかでの視認性を飛躍的に高めた。
また、コンパクトな車内でありながら、降車ボタンやデジタル料金表といった大型バスと共通の「バスとしての記号」をあえてそのまま配置している。

これにより、利用者に「小さくても間違いなく信頼できる路線バスである」という安心感をもたらす認知デザインを成立させた。
しかし、どれほど優れたプロダクトをデザインしても、ユーザーに届かなければ意味がない。

ここで特筆すべきは、新体制のバスを地域に根付かせるために展開された泥臭くも緻密なコミュニケーションデザインである。
導入初期にはバス停周辺の住宅への丁寧なポスティングを徹底したほか、高齢者が集まる体操教室、町内会、さらには学校などへ関係者が直接足を運び、対面での説明を重ねた。
単に時刻表を配るだけでなく、地域連携ICカード「cherica(チェリカ)」の利用方法や実際の乗り方を教える「バスの乗り方教室」という体験型のワークショップをデザインしたことで、新しい移動手段への心理的ハードルを完全に取り除いたのである。

形や大きさを一律に固定せず、ユーザーの生活環境に合わせて最適化する。
そして、その変化を届けるための双方向のコミュニケーションを設計する。
この包括的なリデザインこそが、利用者数を約5倍に押し上げ、さらには中高年や女性が「自分でも運転できるかもしれない」と応募を増やすという運転手不足解消の波及効果まで生み出した成功の本質である。

報道ヘリの罪と罰:熊本地震が浮き彫りにした救助妨害への法的規制

被災地での報道ヘリの弊害

2016年の熊本地震をはじめ、その後の大規模災害で、メディアが飛ばす報道ヘリコプターの「爆音」は深刻な問題として浮き彫りになった。
倒壊した家屋やがれきの下に取り残された被災者は、微力ながらも「ここにいる」「助けて」と声を振り絞り、救助隊もそのかすかな音や気配を察知しようと全神経を集中させている。
しかし、上空を旋回する複数のヘリの騒音は、これら「生死を分ける微細な声」を完全に消し去ってしまう。
また、撮影カメラから遺体や負傷者を隠すために救助隊がブルーシートを掲げる必要が生じ、それが捜索活動そのものを遅延させているという看過できない事実も報告されている。

現行法の限界と課題

現在、災害時での報道ヘリの飛行は、各メディアの「自主規制」や当局との連携、または航空法に基づく一定の高度制限に委ねられている。
しかし、これらはあくまで紳士協定や一般的な安全基準であり、人命救助を最優先するために法的拘束力をもって飛行を全面的に禁止するものではない。
被災者の命を危険にさらす行為が、未だに「知る権利」や「報道の自由」という大義名分の下で野放しにされているのが実態である。

求められる刑事罰の創設

救助活動の妨害は、間接的な「殺人未遂」や「公務執行妨害」に匹敵する極めて悪質な行為である。
以下の具体的な基準に基づく刑事罰の法制化が求められる。

  • 人命救助エリアの完全飛行禁止: 捜索救助活動(特に発災後72時間)が行われている地域の上空に、許可なく進入した民間ヘリに対して即座に罰則を科す。
  • 刑事罰の導入: 自主規制を破り、救助の妨害や遅延を引き起こした航空機運用者に対し、業務妨害罪(刑法233条・234条)の厳罰化、あるいは災害対策基本法を改正して新たな罰則(懲役刑や巨額の罰金刑)を創設する。

国民に現地の状況を伝える重要性は否定しない。
しかし「報道のための映像」が「救えるはずの命」を奪うことは断じて許されない。
命を救うための静寂を確保するため、災害時の上空飛行に対する法的な一線を引き、違反者には厳しい刑事罰を与える仕組みを早期に確立すべきである。
航空機運用者に対する刑事罰は会社という組織ではなく、個人を罰するのがよい。

組織への懲罰など曖昧にしてきた結果がマスゴミと軽蔑の眼差しをうける、この体たらくである。
はっきりとマスコミ個人を罰することで会社命令であっても割にあわないから断るという状況をつくるのがミソだ。
ヘリ取材を断る、別の方法に切り替える、ドローンにする。
代替案はいくらでもある。
それをするのが人であり、しないのも人だ。
罪は人にある。

エリック=クラプトンの接吻

接吻のエリック=クラプトン版。
個人的には本家を超えたのではと感じた。
田島貴男の粘っこさが好きな人とクラプトンのシャウトが好きな方とでわかれるかもしれない。
こういうのはやはりAIのおかげでエンタメが面白くなってきたなとおもう。

JAZZアレンジもなかなかよい。

SPARKLE

40年かかっていまやっと評価されはじめた。
ミュージックビデオもまた素晴らしい。

発表当時は酷評されていたそうで、確かにリアルタイムにはまったくこの曲は記憶にない。
オフコースの「YES-YES-YES」が発売された年で、ギター片手に「YES-YES-YES」は歌って楽しんでいた記憶はある。

「SPARKLE」が発売された1982年は復活した中森明菜の「スローモーション」や研ナオコの「夏をあきらめて」、岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」がヒットした年ということで
その年の記憶の中の光景には確かに山下達郎はいない。

フォークソング部のサークルに当時私はいたが、同校の軽音楽部でも山下達郎を演奏していた学生がいたという記憶もない。
時代にはまだあっていなかったのだろう。

こんなに良い曲なんだけれど歌詞にはなんのメッセージも文学も哲学もない「意味や思想を排除した音楽」というのは当時は逆にロックだったのかもしれない。

コンシューマー・ニューロサイエンスがもたらす未来の「こと作り」

従来のアンケートやインタビュー調査には、大きな課題がある。
それは、人は質問に答えるとき、「人から良く見られたい」という見栄や、「理由はわからないが、一応こう答えておこう」という後付けの理屈に無意識に影響されてしまう点だ。

つまり、言葉による回答は、必ずしも本心を映しているとは限らない。
これに対して、心拍の揺らぎや手のひらの微細な汗といった自律神経の反応は、自分の意思ではコントロールできないため、嘘のつけない「本音のデータ」となる。
この「言葉によるリサーチの限界」を象徴する有名なエピソードがある。

あるメーカーが洗濯石鹸を開発する際、主婦を集めて座談会を開いた。
「どんな石鹸が欲しいか」という問いに対して、主婦たちからは「きれいな花の匂いがする石鹸が良い」というアイデアが出され、満場一致で賛同を得た。
しかし、この会議に、本来参加するはずだった製品開発の担当者が遅れてしまい、参加できなかった。
そのため、主婦たちの「花の匂いが良い」という言葉だけがそのまま鵜呑みにされ、製品化されてしまった。
だが、いざ発売してみると、その石鹸はまったく売れなかった。
当時の主婦たちが洗濯石鹸に本当に求めていたのは、頭で考えた「華やかな花の香り」ではなく、汚れがしっかり落ちるという「洗浄力」や「清潔さ」だったのだ。
この失敗の本質は、1985年にコカ・コーラ社がおこした「ニュー・コーク事件」にも共通している。
同社は20万人もの大規模な目隠し味覚テストを行い、データ上「美味しい」とされた新しい味へ切り替えた。
しかし、発売直後に全米から猛抗議を受け、わずか79日後に元の味に戻すという歴史的大失敗を犯した。
のちの脳科学研究(fMRI)により、消費者はコーラを単なる「味(砂糖水)」ではなく、赤と白のロゴから呼び起こされる「家族との思い出」や「アメリカの文化」といった、脳内の感情や記憶で味わっていたことが証明されている。
どちらの事例も、消費者の言葉や目先のデータだけを真に受けた結果、身体や脳の奥底にある「本音の愛着」を切り捨ててしまった典型例である。
面白いのは、かつて大失敗に終わった「花の香りの石鹸」が、現代では洗剤や柔軟剤の不動の定番になっている点だ。
当時は汚れを落とす「不快をゼロにする作業」だった洗濯が、現代ではお気に入りの香りでリラックスする「プラスの体験(こと作り)」へと変化した。
メーカーが技術を進化させ、「高い洗浄力」と「ピュアな香り」を両立させたことで、消費者の脳は「花の香り=きれいに洗い上がった安心のサイン」として新しく学習(条件付け)したのである。
かつては言葉の嘘だったアイデアも、テクノロジーと人間の脳が調和すれば、未来の定番体験へと育て上げることができる。
近年、こうした「言葉の嘘」を乗り越えるため、生体データと、消費者が目にした広告や商品のタイミングを「ミリ秒単位」でぴったりと合わせる技術が進化した。
さらに、スマートウォッチに搭載された加速度センサーを使って、「歩く」「手を動かす」といった体動によるノイズをきれいに取り除くことで、純粋な心の動きだけを取り出せるようになった。
この技術が、商品開発やサービス設計、そして「体験(コト)作り」の現場を大きく変えようとしている。

第一に、商品開発で、これまで感覚的にしか語れなかった「なんとなく好き」を数値化できる。
例えば、新しいパッケージや香りを試した瞬間に、手のひらに汗をかく反応が出れば、本人が口ではどう言っていようとも「本能的に惹きつけられている」ことが分かる。
また、化粧品のフタを開けるときの手応えや、自動車のドアが閉まる音など、微細な刺激が消費者に「心地よさや安心感(副交感神経の働き)」をどう与えているかを一瞬ごとに検証できる。
これにより、言葉に騙されることなく、高級感や使いやすさをデータに基づいて確実に作り込むことが可能だ。
第二に、サービスやアプリの設計において、ユーザーがどこで「イライラ(ストレス)」を感じているかを突き止める強力な武器になる。
お店の中を歩き回る買い物や、スマホでの決済操作の中で、どの瞬間にストレス値が上がったかを時系列で追うことができる。
体動ノイズがカットされているため、「歩いているから心拍が上がった」のか、「画面が分かりにくくてイライラした」のかを正確に区別できる。
その結果、ユーザーが一切のストレスを感じない、スムーズな顧客体験をデザインできるようになる。
第三に、動画広告やWEBコンテンツの制作では、視聴者の感情の変化をグラフ化できる。
動画のどの場面で「ハッと驚いたか」、逆にどの場面で「飽きて退屈してしまったか」が秒単位で可視化できるため、最後まで視聴者を惹きつける完璧なストーリー編集が可能になる。
しかし、ここで一つの重要な懸念が生まれる。
テクノロジーによってすべての摩擦やイライラを排除した「完璧にストレスレスな社会」は、一見理想的に思えるが、結果として人間をひ弱にし、病弱な社会を作りかねないという危惧だ。
人間は、適度な負荷や不便さを乗り越えることで、心身のレジリエンス(復元力や適応力)を維持し、成長させている。
映画やゲームのストーリーが、ハラハラする緊張や悔しさがあるからこそ感動を生むように、体験の価値には「適切な負荷」が不可欠である。
何から何まで先回りして快適に整えられた世界に浸かり続ければ、私たちの脳や身体は、わずかな予測外の出来事に対しても過剰に脆くなってしまうだろう。
したがって、コンシューマー・ニューロサイエンスがもたらす未来の「こと作り」で、この技術は単にストレスをゼロにするための道具であってはならない。
むしろ、時間同期されたノイズレスな生体データを通じて、消費者の心身の状態を精密に読み解きながら、石鹸やコーラのエピソードにあるような「言葉の歪み」による失敗を避けつつ、「人間が適度な耐性をつけ、活力を得るための良質な負荷」をあえて意図的に配置していく動的な体験設計こそが求められる。
作り手が用意した過保護なプログラムや、アンケートの言葉だけに頼った製品を押し付けるのではない。
人間の脳と体が「理屈抜きで心地よい、面白い」と感じる起伏を、その人のその瞬間の状態に合わせて科学的に組み立て、心身のレジリエンスをも育んでいくプロセス。
それこそが、テクノロジーと人間が真に調和した未来の体験価値のあり方なのだ。

AI時代の価値低減傾向と湯川秀樹

AIの台頭は、クリエイターの心に潜む「価値低減傾向」を加速させている。
人間の技術や感性をAIが一瞬で模倣する今、創り手は「自分の存在価値」を脅かされ、深い劣等感を抱きやすい。

その防衛機制として、他者の作品への攻撃性が強まるのだ。
特に、他人が生み出した成果に対し「どうせAI製だ」「プロンプトを入れただけで大したことない」と決めつけ、努力を過小評価する言葉が目立つ。
相手の才能を否定することで、相対的に自分のプライドを保とうとする歪んだ心理である。

かつて物理学者の湯川秀樹は、講義中に学生から黒板の数式の誤りを指摘された際、うなり、考え込んだ末に立ち往生してしまったという。
しかし湯川は、そこで自尊心を守るために学生の指摘をはねつけたり、自分の無知を隠すために相手を貶めたりはしなかった。
彼は「ちょっと待っとき」と言って教室を出ると、数学の同僚である天才数学者・岡 潔を連れて戻ってきたのだ。
岡に間違いを直してもらうと、湯川は「ああ、そうか。なるほどなあ。みんなも分かったか? 授業つづけるで」と素直に認め、何事もなかったかのように講義を再開したという。
このエピソードは、真の創り手や探求者が持つべき「開かれた態度」を鮮やかに示している。
ノーベル賞受賞者という圧倒的な権威があっても、湯川は自らの間違いや分からないことを恐れず、他者の専門性に敬意を払った。

翻って現在のAI時代、私たちはどうだろうか。
自分の領域が脅かされる恐怖から、他人の成果を「AIの小手先のツールに頼っているだけだ」と冷笑し、その価値を強引に低減させていないだろうか。
それは、自分自身の技術や誇りが揺らいでいることの裏返しにほかならない。
この時代を生きるクリエイターは、「どうせAI」という冷笑的な雑音をスルーする強さを持たねばならない。
同時に、技術の優劣やツールの差を超えた「作品に込めた当事者としての魂」や「人間的なつながり」を信じること。
分からないことを認め、他者の優れた部分を素直に称賛した湯川秀樹のように、ツールや環境の変化に怯えない「芯のある誇り」を育むことこそが、他者を下げる必要のない、創り手としての本当の強さを育んでいく。

ロジックへの偏愛

「最近、なんだか疲れが取れない」「気づけば一日中、頭がフル回転している」もしそう感じているなら、それは心が疲れているだけでなく、体の中の「あるセンサー」が錆びついているサインかもしれない。
現代を生きる私たちは、驚くほど「思考(ロジック)」を過剰に重視して生きている。
仕事のタスク、キャリアの選択、日々のスケジュール管理。
すべてを頭で考え、論理的に処理しようとする。
しかし、このロジックへの偏愛こそが、私たちから「内受容感覚(ないじゅようかんかく)」という大切な力を奪っている背景にある。
内受容感覚とは、一言でいえば「身体の内部センサー」だ。
心臓の鼓動、呼吸の深さ、胃腸の動き、あるいは「なんとなく体が重い」といった漠然とした体調の変化。
これらを脳がキャッチする感覚のことを指す。

本来、このセンサーが正常に働くからこそ、私たちは「疲れたから休もう」「喉が渇いたから水を飲もう」と、自分を適切に労ることができる。
しかし、思考優位の人間は、体の声よりも頭の損得勘定やスケジュールを優先しがちだ。
「まだタスクが残っているから動く」「時間になったから食べる」。
そうやって体のサインを無視し続けた結果、センサーのボリュームは麻痺し、ある日突然、限界を迎えて心身を崩してしまう。
この「脳の過熱」と「センサーの麻痺」を解決する、最もシンプルで強力な方法がある。
それが、「お風呂に入って、15分間ぼーっとする」ことだ。
「そんな単純なことでいいのか」と思うかもしれない。
しかし、スマホも本も音楽もすべて手放し、ただ湯船に浸かってぼーっとするとき、私たちの脳内では驚くべき変化が起きている。
脳には、外部のタスクを処理していないときにだけ起動する「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」という回路がある。
お風呂でぼーっとしているとき、この回路が主役になり、脳は「今、体はどこが疲れているか」「呼吸のペースはどうか」といった内部のメンテナンスを集中して行い始める。
つまり、「ぼーっとする時間」とは、生産性のないサボりの時間などではない。
壊れた内部センサーを修理するための、極めてロジカルな調律の時間なのだ。
コツは、お風呂の電気を消して、脱衣所の明かりだけにするなど「薄暗い空間」にすること。
そして、スマホを絶対に持ち込まないことだ。
目や耳からの情報(外受容感覚)をシャットアウトすることで、脳の意識は強制的に「内側」へと引き戻される。
「お湯が肌に触れて温かい」「浮力で体がふわっと浮いている」頭の中で仕事の反省や明日の計画が始まったら、その都度、その「肌の感覚」に意識のアンカーを降ろす。
お風呂上がりに「あぁ、じわじわと温かくて気持ちいい」と感じられたなら、それは内受容感覚が、無事に目を覚ました証拠だ。
タイパ(タイムパフォーマンス)や効率ばかりが求められる時代だからこそ、意識的に「何もしない余白」を作る。

今夜はスマホを部屋に置いて、暗めのお風呂で、静かに自分の体とつながる時間を過ごしてみてはどうだろうか。