duckman – JUiCANDSEA

川の流れのように

アイナ・ジ・エンドさんバージョンの方が私にはしっくりくる。
自由に演じているのか、本当に自由なのか。
猫動画をみているときのように感じるのは私だけではないとおもう。

Cui bono?

Cui bono?(ク・イ・ボノ=誰が得をするのか?)でフィルターをかけることがこれからもっとも大事になってくる。
情報を受け取った際、常に自分に問いかけてみよう。

「〇〇の情報を信じることで、最終的に誰が(どの勢力が)利益を得るのか?」

「不安を煽る〇〇の情報は、何かの購入(保険、薬、特定の思想)に繋がっていないか?」

「特定の人物を叩く偏向報道は、それによって誰の不祥事、不都合が隠されるのか?」

この視点を持つだけで、マスメディアやインフルエンサーによる「誘導」の大半を無力化できる。
昨今の偏向報道はあまりにひどいのでAIでの自動フィルターが早々にできるのではないか。
その際にたとえば偏向部分はXXにする、文字をぬくなどをしてくれれば逆におもしろいニュースサイトができあがるのでぜひみてみたい。
表紙に字がほとんどないじゃないか、とか真っ白の画面になるなど、なかなかシュールでこれはこれで楽しめる。

ジャポニカ学習帳は遠い日の花火

年配のひとにも現役の小学生にもお馴染みのジャポニカ学習帳の表紙が写真からイラストに変わった。
長らく昆虫が表紙を飾っていたが、気持ち悪いという昨今の子供感覚に合わせてイラストにかえたということだ。
イラストはtupera tupera(ツペラ ツペラ)さんが担当している。
さっぱりしたヨーロッパ風の楽しいイラストなのはいわゆる昆虫の写真とは真逆で、昭和は遠い日の花火だと思わざるを得なくなった。

脳死状態でやってという言い方

脳死状態でやって、という言葉がはやっている。
何も考えずに、という意味でつかわれているが、非常に不謹慎極まりない表現である。

これをあまり意識せずにつかっている文芸評論家がいたが、フリーアナウンサーの宇垣さんはこの表現はつかいたくないと自身のYOUTUBEチャンネルで語っていた。
職業柄なのか、もともと読書家で言葉にうるさい方だからなのか、言葉を大事にする人は慧眼が鋭い。

言葉は民族の知恵の結晶だ。
知恵を軽んじる姿勢はいずれ行動も軽くなる。

言葉は自身のアイデンティティなのだ。
軽んじることは自己否定になる。

それでいい人はお好きにどうぞ、と軽んじてあげればよい。

ichi-clip考察

なかなか手に入らないichi-clipはありそうでなかった逸品。
おしゃれでかつ機能性がたかいというのはデザインとしては最高の褒め言葉。
実際使っていないので耐久性など、素材としてどうかわからないが、素材もよければいうことなし。

ポールスミスの物はエモーショナルで好きだけれど(機能性はそんなによいわけではないが)、ハンドクリームのキャップが折れる、服はすぐすすける、バッグのファスナーはちぎれるなど、すぐ壊れるのはどうかと、いつもおもう。
材料が安いのか、製造工程に問題があるのか、調べたことがないのでわからないが、改善する伸び代はある。

https://shop.foodmark.co.jp/items/70050663

日本の原点は1979年ではあるがベストであるわけではない

日本の原点は1979年といわれている。

南 信長 著の『1979年の奇跡』ではその辺りをアニメやパソコン、ワープロ、映画やドラマ、報道、経済事象から考察している。
読んでいてとても懐かしく、このころ、つまりバブルの前あたりにもう一回もどるのもありかなとおもったりもする。

バブルでとち狂う前の日本の原風景がそこに収まっている。
日本人は基本幼稚なところ、無邪気なところがあるので、放置して調子にのって、いきなり規制たことで失敗したこの30年の反省を踏まえて、監視しながら随時規制、随時解放した方がよいのかもしれない。
再度バブル前にもどして監視しながら、再度やりなおすのがよい。

ワープロの成熟期に画面デザインをしたり、MDの筐体デザインをしてきた身としては自分のしてきたことがすでに歴史の中におさまってしまっているのがなんともいえず、感慨深く感じる。

いまAI主導の新しい文化はこれはこれでおもしろいので参加して、楽しみたい。
1979年は原点ではあるが、ベストであるわけではない。

接吻のいま

JAZZアレンジはとても刺激だ。
リアルタイムに原曲を聴いていた世代にもまた新しく気持ちがよい。
現役世代がこういうふうに振り付けをつけて踊るとなぜか涙がでてくる。
なんの涙だろう。

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