duckman – ページ 15 – JUiCANDSEA

読解力の問題なのか

日本の葬儀という現場を知らない、死という光景から非常に遠ざかった現代の子供たちがここにいる。
過去の日本の風習はかなり意識的に収集しないかぎり知ることはない。

そういう強烈な表現をテレビではしない。

親戚や寄り合いから距離をおいて核家族で暮らすなかで見聞きしない死の現場。

悲しい場である葬儀の場と、給食のようにみんなで食べる楽しい場がイコールなわけがない。
単純に子供たちは誤読をしたというより、生活習慣が変わってきている中で阿吽では伝わらないことの例であると考えた方が話がすっきりする。

葬式での風習でいえば火葬場で肉親の骨をひろう「収骨」や「骨上げ」はよく考えてみるとずいぶんエキセントリックでサイコパスな風習である。

再び、プロとはなにか

プロの仕事とはなにか。
アメリカのドラマ「SUITS/スーツ」は弁護士の仕事や日常を描きながら、弁護士としての「仕事のプロ」とはなにかをおもしろく描いている。
弁護士は観察眼と交渉が大事で、ちゃんと見て、理解して、段取りも考えて行動しているかという視点をもつように視聴者に促している。

さて、ここにあげている演奏家の動画はいずれも突発的におこったハプニングへの対処の例である。
プロとはなにかを考えるのにいいサンプル。

エッセイは科学ではない

すぐに炎上するオールドメディアのコメンテーターは自分の発言が記録され、文章化され、各方面で分析されて論破されているという現状を理解できないのだろうか。
まったくYOUTUBEもSNSも見ないということなのだろうか。

YOUTUBEやSNSの分析などまったく力がないと見くびっているのだろうか。
その自信はオールドメディア人の年収の高さ、マスコミやテレビ業界にいるという選民意識から来ているのだろうか。

根拠も調査もない中で、自分の中でつくったストーリーを語るのなら、あくまでこれは自分の考えたストーリーです、そういう思いなのです、といえばそれはエッセイになるので誰も追求はしない。
コメンテーターの戯言として処理される。
ただし報道業という職業でそれをするのなら偏向報道になるので当然論外だ。
偏向報道を客観的事実として報道していることになる。

しかしながら、どうしてエッセイを科学だとおもいこんでいるのか、ほんとうにさっぱりわからない。
科学でないものは再現性がない。
効果測定もそれに基づいた構築もしようがない。
客観的事実であるのをご存知ないのかといいたい、だけなのか。
自己の分析は非常に客観的であるということで自己崩壊を防ごうとしているのか。

ひとりで生活してひとりで生計をたて、ひとりで将来設計をする限りにおいて、エッセイはその人にとって科学になる。
ゆえにその人に関しては再現性がある。

そうでないなら、個人の言説を社会調査の結果のように垂れ流すのは害悪でしかない。
あくまでそうおもっただけの私の妄想で私の思い込みで、私の勝手な危惧ですといえばいい。
個人の感想ならそういうこととして処理されるだけのことだ。
YOUTUBEででも語っていればよい。

裸の王様も大概にした方がいい。

のたうちまわる

ああでもないこうでもないと右往左往している文章や例ばかり次々と列挙してくる著作はあまり好きではない。
著者は丹念に紐解いているのだ、と言えば聞こえはいいが、ページ稼ぎなのではないか。

いまはタイパの時代だ。
ビジネス書は活用されてこそ意味がある。
売るための煽りや誇張はもうダサい。

文学はあくまでプロセスを楽しむためのものだろうから、ああだこうだもまた味といえる。
ただいまの時代、よほど読み応えのある言い回しや演出、ドラマ性がないと時間を奪われた気になって嫌になる。

今年は芥川賞も直木賞もなかった。
娯楽は他にいくらでもある時代だ。
よほど演出がよくないと、YOUTUBEやインスタをザッピングしている方がよいとなる。

タイパを無視するやり方が成功するのか

お弁当チェーンの「ほっともっと(HottoMotto)」は人件費の高騰が理由で2019年に閉店ラッシュがあったとのことだが、当時それだけが理由かなとおもっていた。
あくまで数回だけの経験だが、店の中で、椅子もなく、注文から受け取りまで10分以上も待たされた覚えがある。
口コミをみても「ほっともっと」は提供に随分時間がかかるお店のようだ。

いくらおいしいからといっても、それではタイパが悪すぎる。
かつ立たされたままだと話にならない。
そこでしか手に入らない商品、ではない。

お客様は本当によいものなら我慢してくださると、いくつかのビジネス書にはそれがまるで真実かのように書いている。
だが、いってることは非常に文学的で、科学性がない。
つまり再現性も検証性もない。
もちろんエビデンスもない。
一点物だとギリギリ成り立つかもしれないが、この先はわからない。

この場合の本当にいいものはプロダクトアウトのみの発想であり、マーケットインとの組み合わせではない。
つまり、ものがよく、かつ、手に入りやすいという両方がないといまは飽食の時代なので、2番手の商品でも十分なのである。
2番手がない場合だけ、我慢するというのはありえる。

今時は時間を楽しむ時代だ。
もうこれ以上日本は成長しないだろうと大方の人はみているのではないか。

いわゆる定義された成長はおそらく、もうしない。
ならば今を、時間を楽しむしかない。

タイパを無視するやり方が成功するというのはまったく科学的ではない。
CMまたぎで答えはこのあとでは答えはみないでチャンネルを変える。
どうしても気になるときはTverやX、ブログなどで確認できる。

ちなみに「ほっともっと(HottoMotto)」の2023年も2024年も業績を公開していないので、赤字なのか黒字になったのかわからない。

ベニクラゲは死ない

ベニクラゲは死ない。
成熟して死ぬ段階で、ポリプと呼ばれる幼生の状態に戻ることで若返る。

つまり、何度も何度も幼児に戻ることで事実上死ぬことはない。
クラゲは約5億年前のカンブリア紀からいるとされるているので、約5億歳のベニクラゲも中にはいるということだ。

5億年もこの世界をみてきたベニクラゲには今の世界はどう見えるのか。

こどものせかい

『こどものせかい』はコトリンゴの楽曲で、片渕須直監督『マイマイ新子と千年の魔法』の主題歌。

『マイマイ新子と千年の魔法』はのちの『この世界の片隅に』につながる作品である。
見ておくべき作品というのが公開後の流れでわかる。

楽曲『こどものせかい』がこのおだやかな時代の日本の描写にちょうどいい。

いまどきはなにごとも毅然とした態度で対応しないと根こそぎヤられてしまうというかなりイカれたイカつい時代だ。
こういう音楽と作品は本当にオアシスを与えてくれる。
『マイマイ新子と千年の魔法』は宣伝と興行のしかたを工夫すればもっと広がる作品なのではとおもう。

ロボットは東大に入れる

「ロボットは東大に入れるか」という問いかけは2014年で、当時はいまほどAIが発達していなかった。
さすがに文章題の多い東大は無理かと、人間として安心していたのに今年2025年、東大理科三類の最低合格点をAIがとった。

上記の本の著者、新井紀子さんは訂正して再度改訂版「ロボットは東大に入れるよ」をだしてほしい。
東ロボくんは東大には入れなかった、AIの限界、とあれだけAIを馬鹿にしていたのにそれはない。
人間がAIに勝つためには「読解力」を磨くしかない、つまり読解力は人間の方が上だといってAIを散々蔑んでいた。

が、文章題、読解力がないと解けない東大理3にはいれてしまった。

今後さらに磨きがかかって、センサーとAIが連動していくと、体感までAI化されるのでますます大半の人間よりAIの方が正しいし、AIの方がよい、ということになりかねない。

しかしながら、AIは質問には完璧に答えられるものの、その答えに応じたものをちゃんとつくることができないらしい。
これを「ポチョムキン理解」という。

そうなると東大理3にははいれるが、自分の主張をまとめた卒論をちゃんと書けないということなので、卒業はできないということか。

新井紀子さんはそのあたり専門的に理解されているはずなので、改訂版「ロボットは東大に入れるよ - でも、卒論は書けないので卒業できないよ -」という改訂版を緊急出版してほしい。

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