文房具オタクの話を聞いていると、シャープペンシルは0.4mmが良いとのこと。
カリカリしすぎず、折れにくく、みやすい、らしい。
一度書き比べてみよう。
カテゴリー: creative thinking
マカン・アンギン
Makan angin(マカン・アンギン)はマレー語で、気分転換に出かける、散歩にでる、直訳すると 風を食べる となる。
とてもおもしろい感覚である。
大きい懐はもう、ない
大きい懐で、様子見する。
しばらく泳がしておく。
いま借りをつくらせよう。
このあたりをいままでの権威者、オールドが手法としてしてきたので、それに対して弱者は甘えてきたが、もうそれは遠い日の花火となった。
あたらしい権威者はすぐに反応する、すぐに回答する、空気をよむのをやめる、相手の土俵を消す、事実関係を明示してくる、という真っ当な戦略に切り替えたのはご覧のとおりだ。
結果はいわゆる弱者の負け。
これは頭脳戦の敗北である。
すなわち、自称弱者の頭の悪さゆえの敗北だ。
具体的には野党。
オールドメディア。
パトスだけの活動家。
暴走シルバー。
AIでこの人の発言の趣旨はなんでしょうか、発言者は事実を理解していますか、何%の正確さがありますか、など判定させることもいまはできる。
全部白日のもとに発言者の実態が明白にさらされる。
だからといってAIで名を売っているグループなのかチームなのかが優位であるというわけでは当然ない。
AIという手段しか自慢できることがないとなると、そもそもフィロソフィーがないので有事の際の対応がまったくの素人であることが明確になってしまう。
おおきい懐はもう存在しない。
丁々発止のやり取りを楽しんでくれる人がもういない。
自認弱者はさっさとやり方をかえた方がよい。
子供は一旦、大人を信用しないこと、で当分対応した方がよい。
時処位
行動を起こす際に意識すべき3つの要素(時・所・位)を指す言葉で、AIがどうもこの時処位(じしょい)の経験を奪っていくのではないか、ということがいま懸念されている。
つまり経験の浅い、経験の少ないとっちゃん坊やが大量に出来上がる社会ということで、ディスコミニケーションだらけの、トラブルだらけの社会のできあがりということだ。
行動すべき「タイミング」や「時宜」、「場所」や「状況・対象」、「立場」や「役割・分際」を意識してうごくしかない。
AIは便利だ、で終わっていると、突発事項に対応できない人間から先にすすめなくなる。
凡人が判断をしない
天才は天才を知る。
凡人は天才のいってることがわからないので、そのまま聞き流す。
時流がうまくあわないでヒットしないこともありえるが、契約したところで大金を払うわけでもないのだろうから、その重い腰をさっさと上げるべきだった。
誰がそのミスをしたか、社内で特定してやればいい。
日本はまあ、よいではないか、みんなが犯人だ、の文化が強すぎる。
結果、反省0でまた同じ失敗を今後も繰り返す。
絶対繰り返す。
失われた30年はこれからも続くのだろう。
凡人は凡人であることの自覚から始めること。
凡人が大事な判断をしないことだ。
AIの方が的確な判断をしている。
AIは周知を集めるから、的確な判断になるのはあたりまえである。
凡人の判断はむしろ害悪である。
Cui bono?
Cui bono?(ク・イ・ボノ=誰が得をするのか?)でフィルターをかけることがこれからもっとも大事になってくる。
情報を受け取った際、常に自分に問いかけてみよう。
「〇〇の情報を信じることで、最終的に誰が(どの勢力が)利益を得るのか?」
「不安を煽る〇〇の情報は、何かの購入(保険、薬、特定の思想)に繋がっていないか?」
「特定の人物を叩く偏向報道は、それによって誰の不祥事、不都合が隠されるのか?」
この視点を持つだけで、マスメディアやインフルエンサーによる「誘導」の大半を無力化できる。
昨今の偏向報道はあまりにひどいのでAIでの自動フィルターが早々にできるのではないか。
その際にたとえば偏向部分はXXにする、文字をぬくなどをしてくれれば逆におもしろいニュースサイトができあがるのでぜひみてみたい。
表紙に字がほとんどないじゃないか、とか真っ白の画面になるなど、なかなかシュールでこれはこれで楽しめる。
ジャポニカ学習帳は遠い日の花火
年配のひとにも現役の小学生にもお馴染みのジャポニカ学習帳の表紙が写真からイラストに変わった。
長らく昆虫が表紙を飾っていたが、気持ち悪いという昨今の子供感覚に合わせてイラストにかえたということだ。
イラストはtupera tupera(ツペラ ツペラ)さんが担当している。
さっぱりしたヨーロッパ風の楽しいイラストなのはいわゆる昆虫の写真とは真逆で、昭和は遠い日の花火だと思わざるを得なくなった。
都道府県を1文字で
漢字は知恵の結晶である。
都道府県を1文字でという、なかなかの大喜利はみていても楽しい。
脳死状態でやってという言い方
脳死状態でやって、という言葉がはやっている。
何も考えずに、という意味でつかわれているが、非常に不謹慎極まりない表現である。
これをあまり意識せずにつかっている文芸評論家がいたが、フリーアナウンサーの宇垣さんはこの表現はつかいたくないと自身のYOUTUBEチャンネルで語っていた。
職業柄なのか、もともと読書家で言葉にうるさい方だからなのか、言葉を大事にする人は慧眼が鋭い。
言葉は民族の知恵の結晶だ。
知恵を軽んじる姿勢はいずれ行動も軽くなる。
言葉は自身のアイデンティティなのだ。
軽んじることは自己否定になる。
それでいい人はお好きにどうぞ、と軽んじてあげればよい。
やさしい時代の終焉
人倫に反することが社会として成立しなくなってきている。
これは倫理資本主義を唱えるマルクス・ガブリエルの学説を読み解く必要もなく、そういった人倫としてどうかとおもわれる人々が世間から猛烈に非難を浴びたり、逮捕されている例でもわかることだ。
それをいままでの非難としてしかとらえられていないところが問題で、そこまで頑強な蒙昧脳だとどうにも対処療法がみあたらない。
ヤジをまだ華だといっている唾棄すべき昭和の残滓にいちいち説明する時間が1秒でも勿体無いので、以下略でいいのだが、数年後には表舞台から消えるので、それが答えだ。
非難を浴びているうちがチャンスでその後の残滓タレントの末路を見ればよくわかる。
本来タレントは中身に報酬が見合っていない職業の代表例だ。
でれているのは宣伝効果をまだ計測できていないか、ちゃんと宣伝効果があると計測できているかの人物で、計測した結果、見合っていないと確定されたタレントは表舞台から削除、もしくは非表示にされている。
誰も復活できていない。
実質必要ないからだ。
中身空っぽが生き残れるやさしい時代ではなくなったということだ。