Think of|制作の周辺

THINK of | 制作の周辺

エリック=クラプトンの接吻

接吻のエリック=クラプトン版。
個人的には本家を超えたのではと感じた。
田島貴男の粘っこさが好きな人とクラプトンのシャウトが好きな方とでわかれるかもしれない。
こういうのはやはりAIのおかげでエンタメが面白くなってきたなとおもう。

JAZZアレンジもなかなかよい。

SPARKLE

40年かかっていまやっと評価されはじめた。
ミュージックビデオもまた素晴らしい。

発表当時は酷評されていたそうで、確かにリアルタイムにはまったくこの曲は記憶にない。
オフコースの「YES-YES-YES」が発売された年で、ギター片手に「YES-YES-YES」は歌って楽しんでいた記憶はある。

「SPARKLE」が発売された1982年は復活した中森明菜の「スローモーション」や研ナオコの「夏をあきらめて」、岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」がヒットした年ということで
その年の記憶の中の光景には確かに山下達郎はいない。

フォークソング部のサークルに当時私はいたが、同校の軽音楽部でも山下達郎を演奏していた学生がいたという記憶もない。
時代にはまだあっていなかったのだろう。

こんなに良い曲なんだけれど歌詞にはなんのメッセージも文学も哲学もない「意味や思想を排除した音楽」というのは当時は逆にロックだったのかもしれない。

消費者の「本音」はどこにある?生体データが変える商品開発と顧客体験(コト作り)の未来

市場調査のアンケートで「欲しい」と言われた商品が、なぜ発売後に売れないのでしょうか? 
本記事では、コカ・コーラの「ニュー・コーク事件」などの有名な失敗事例を引き合いに、言葉に隠された消費者の嘘を解説します。
さらに、最新の脳科学や生体データ(心拍・発汗)を活用して、ユーザーの「無意識の本音」を掴む次世代のマーケティング手法と顧客体験(コト作り)の可能性に迫ります。

アンケート調査の限界と「言葉の嘘」を裏付ける生体データ

従来のアンケートやインタビュー調査には、大きな課題がある。
それは、人は質問に答えるとき、「人から良く見られたい」という見栄や、「理由はわからないが、一応こう答えておこう」という後付けの理屈に無意識に影響されてしまう点だ。

つまり、言葉による回答は、必ずしも本心を映しているとは限らない。
これに対して、心拍の揺らぎや手のひらの微細な汗といった自律神経の反応は、自分の意思ではコントロールできないため、嘘のつけない「本音のデータ」となる。
この「言葉によるリサーチの限界」を象徴する有名なエピソードがある。

花の香りの石鹸とニュー・コーク事件にみるマーケティングの失敗事例

あるメーカーが洗濯石鹸を開発する際、主婦を集めて座談会を開いた。
「どんな石鹸が欲しいか」という問いに対して、主婦たちからは「きれいな花の匂いがする石鹸が良い」というアイデアが出され、満場一致で賛同を得た。
しかし、この会議に、本来参加するはずだった製品開発の担当者が遅れてしまい、参加できなかった。
そのため、主婦たちの「花の匂いが良い」という言葉だけがそのまま鵜呑みにされ、製品化されてしまった。
だが、いざ発売してみると、その石鹸はまったく売れなかった。
当時の主婦たちが洗濯石鹸に本当に求めていたのは、頭で考えた「華やかな花の香り」ではなく、汚れがしっかり落ちるという「洗浄力」や「清潔さ」だったのだ。
この失敗の本質は、1985年にコカ・コーラ社がおこした「ニュー・コーク事件」にも共通している。
同社は20万人もの大規模な目隠し味覚テストを行い、データ上「美味しい」とされた新しい味へ切り替えた。
しかし、発売直後に全米から猛抗議を受け、わずか79日後に元の味に戻すという歴史的大失敗を犯した。
のちの脳科学研究(fMRI)により、消費者はコーラを単なる「味(砂糖水)」ではなく、赤と白のロゴから呼び起こされる「家族との思い出」や「アメリカの文化」といった、脳内の感情や記憶で味わっていたことが証明されている。
どちらの事例も、消費者の言葉や目先のデータだけを真に受けた結果、身体や脳の奥底にある「本音の愛着」を切り捨ててしまった典型例である。
面白いのは、かつて大失敗に終わった「花の香りの石鹸」が、現代では洗剤や柔軟剤の不動の定番になっている点だ。
当時は汚れを落とす「不快をゼロにする作業」だった洗濯が、現代ではお気に入りの香りでリラックスする「プラスの体験(こと作り)」へと変化した。
メーカーが技術を進化させ、「高い洗浄力」と「ピュアな香り」を両立させたことで、消費者の脳は「花の香り=きれいに洗い上がった安心のサイン」として新しく学習(条件付け)したのである。
かつては言葉の嘘だったアイデアも、テクノロジーと人間の脳が調和すれば、未来の定番体験へと育て上げることができる。
近年、こうした「言葉の嘘」を乗り越えるため、生体データと、消費者が目にした広告や商品のタイミングを「ミリ秒単位」でぴったりと合わせる技術が進化した。
さらに、スマートウォッチに搭載された加速度センサーを使って、「歩く」「手を動かす」といった体動によるノイズをきれいに取り除くことで、純粋な心の動きだけを取り出せるようになった。
この技術が、商品開発やサービス設計、そして「体験(コト)作り」の現場を大きく変えようとしている。

生体データが変える商品開発・アプリ設計・動画広告の未来

第一に、商品開発で、これまで感覚的にしか語れなかった「なんとなく好き」を数値化できる。
例えば、新しいパッケージや香りを試した瞬間に、手のひらに汗をかく反応が出れば、本人が口ではどう言っていようとも「本能的に惹きつけられている」ことが分かる。
また、化粧品のフタを開けるときの手応えや、自動車のドアが閉まる音など、微細な刺激が消費者に「心地よさや安心感(副交感神経の働き)」をどう与えているかを一瞬ごとに検証できる。
これにより、言葉に騙されることなく、高級感や使いやすさをデータに基づいて確実に作り込むことが可能だ。
第二に、サービスやアプリの設計において、ユーザーがどこで「イライラ(ストレス)」を感じているかを突き止める強力な武器になる。
お店の中を歩き回る買い物や、スマホでの決済操作の中で、どの瞬間にストレス値が上がったかを時系列で追うことができる。
体動ノイズがカットされているため、「歩いているから心拍が上がった」のか、「画面が分かりにくくてイライラした」のかを正確に区別できる。
その結果、ユーザーが一切のストレスを感じない、スムーズな顧客体験をデザインできるようになる。
第三に、動画広告やWEBコンテンツの制作では、視聴者の感情の変化をグラフ化できる。
動画のどの場面で「ハッと驚いたか」、逆にどの場面で「飽きて退屈してしまったか」が秒単位で可視化できるため、最後まで視聴者を惹きつける完璧なストーリー編集が可能になる。

テクノロジーがもたらす「ストレスレスな社会」の懸念と人間のレジリエンス

しかし、ここで一つの重要な懸念が生まれる。
テクノロジーによってすべての摩擦やイライラを排除した「完璧にストレスレスな社会」は、一見理想的に思えるが、結果として人間をひ弱にし、病弱な社会を作りかねないという危惧だ。
人間は、適度な負荷や不便さを乗り越えることで、心身のレジリエンス(復元力や適応力)を維持し、成長させている。
映画やゲームのストーリーが、ハラハラする緊張や悔しさがあるからこそ感動を生むように、体験の価値には「適切な負荷」が不可欠である。
何から何まで先回りして快適に整えられた世界に浸かり続ければ、私たちの脳や身体は、わずかな予測外の出来事に対しても過剰に脆くなってしまうだろう。
したがって、コンシューマー・ニューロサイエンスがもたらす未来の「こと作り」で、この技術は単にストレスをゼロにするための道具であってはならない。
むしろ、時間同期されたノイズレスな生体データを通じて、消費者の心身の状態を精密に読み解きながら、石鹸やコーラのエピソードにあるような「言葉の歪み」による失敗を避けつつ、「人間が適度な耐性をつけ、活力を得るための良質な負荷」をあえて意図的に配置していく動的な体験設計こそが求められる。
作り手が用意した過保護なプログラムや、アンケートの言葉だけに頼った製品を押し付けるのではない。
人間の脳と体が「理屈抜きで心地よい、面白い」と感じる起伏を、その人のその瞬間の状態に合わせて科学的に組み立て、心身のレジリエンスをも育んでいくプロセス。
それこそが、テクノロジーと人間が真に調和した未来の体験価値のあり方なのだ。

AI時代の価値低減傾向と湯川秀樹

AIの台頭は、クリエイターの心に潜む「価値低減傾向」を加速させている。
人間の技術や感性をAIが一瞬で模倣する今、創り手は「自分の存在価値」を脅かされ、深い劣等感を抱きやすい。

その防衛機制として、他者の作品への攻撃性が強まるのだ。
特に、他人が生み出した成果に対し「どうせAI製だ」「プロンプトを入れただけで大したことない」と決めつけ、努力を過小評価する言葉が目立つ。
相手の才能を否定することで、相対的に自分のプライドを保とうとする歪んだ心理である。

かつて物理学者の湯川秀樹は、講義中に学生から黒板の数式の誤りを指摘された際、うなり、考え込んだ末に立ち往生してしまったという。
しかし湯川は、そこで自尊心を守るために学生の指摘をはねつけたり、自分の無知を隠すために相手を貶めたりはしなかった。
彼は「ちょっと待っとき」と言って教室を出ると、数学の同僚である天才数学者・岡 潔を連れて戻ってきたのだ。
岡に間違いを直してもらうと、湯川は「ああ、そうか。なるほどなあ。みんなも分かったか? 授業つづけるで」と素直に認め、何事もなかったかのように講義を再開したという。
このエピソードは、真の創り手や探求者が持つべき「開かれた態度」を鮮やかに示している。
ノーベル賞受賞者という圧倒的な権威があっても、湯川は自らの間違いや分からないことを恐れず、他者の専門性に敬意を払った。

翻って現在のAI時代、私たちはどうだろうか。
自分の領域が脅かされる恐怖から、他人の成果を「AIの小手先のツールに頼っているだけだ」と冷笑し、その価値を強引に低減させていないだろうか。
それは、自分自身の技術や誇りが揺らいでいることの裏返しにほかならない。
この時代を生きるクリエイターは、「どうせAI」という冷笑的な雑音をスルーする強さを持たねばならない。
同時に、技術の優劣やツールの差を超えた「作品に込めた当事者としての魂」や「人間的なつながり」を信じること。
分からないことを認め、他者の優れた部分を素直に称賛した湯川秀樹のように、ツールや環境の変化に怯えない「芯のある誇り」を育むことこそが、他者を下げる必要のない、創り手としての本当の強さを育んでいく。

ロジックへの偏愛

「最近、なんだか疲れが取れない」「気づけば一日中、頭がフル回転している」もしそう感じているなら、それは心が疲れているだけでなく、体の中の「あるセンサー」が錆びついているサインかもしれない。
現代を生きる私たちは、驚くほど「思考(ロジック)」を過剰に重視して生きている。
仕事のタスク、キャリアの選択、日々のスケジュール管理。
すべてを頭で考え、論理的に処理しようとする。
しかし、このロジックへの偏愛こそが、私たちから「内受容感覚(ないじゅようかんかく)」という大切な力を奪っている背景にある。
内受容感覚とは、一言でいえば「身体の内部センサー」だ。
心臓の鼓動、呼吸の深さ、胃腸の動き、あるいは「なんとなく体が重い」といった漠然とした体調の変化。
これらを脳がキャッチする感覚のことを指す。

本来、このセンサーが正常に働くからこそ、私たちは「疲れたから休もう」「喉が渇いたから水を飲もう」と、自分を適切に労ることができる。
しかし、思考優位の人間は、体の声よりも頭の損得勘定やスケジュールを優先しがちだ。
「まだタスクが残っているから動く」「時間になったから食べる」。
そうやって体のサインを無視し続けた結果、センサーのボリュームは麻痺し、ある日突然、限界を迎えて心身を崩してしまう。
この「脳の過熱」と「センサーの麻痺」を解決する、最もシンプルで強力な方法がある。
それが、「お風呂に入って、15分間ぼーっとする」ことだ。
「そんな単純なことでいいのか」と思うかもしれない。
しかし、スマホも本も音楽もすべて手放し、ただ湯船に浸かってぼーっとするとき、私たちの脳内では驚くべき変化が起きている。
脳には、外部のタスクを処理していないときにだけ起動する「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」という回路がある。
お風呂でぼーっとしているとき、この回路が主役になり、脳は「今、体はどこが疲れているか」「呼吸のペースはどうか」といった内部のメンテナンスを集中して行い始める。
つまり、「ぼーっとする時間」とは、生産性のないサボりの時間などではない。
壊れた内部センサーを修理するための、極めてロジカルな調律の時間なのだ。
コツは、お風呂の電気を消して、脱衣所の明かりだけにするなど「薄暗い空間」にすること。
そして、スマホを絶対に持ち込まないことだ。
目や耳からの情報(外受容感覚)をシャットアウトすることで、脳の意識は強制的に「内側」へと引き戻される。
「お湯が肌に触れて温かい」「浮力で体がふわっと浮いている」頭の中で仕事の反省や明日の計画が始まったら、その都度、その「肌の感覚」に意識のアンカーを降ろす。
お風呂上がりに「あぁ、じわじわと温かくて気持ちいい」と感じられたなら、それは内受容感覚が、無事に目を覚ました証拠だ。
タイパ(タイムパフォーマンス)や効率ばかりが求められる時代だからこそ、意識的に「何もしない余白」を作る。

今夜はスマホを部屋に置いて、暗めのお風呂で、静かに自分の体とつながる時間を過ごしてみてはどうだろうか。

アルファ雄ニシダ

ラランドのニシダが異常個体として話題になっている。
鍛えずともスクワットで200kgのダンベルを持ち上げたり、格闘家の魔裟斗相手に相撲で勝ったり。
ある人が称してアルファ雄であると。
60分間ひたすら相撲を取り続けるライブ「ニシダ無限相撲~感動の60分~」(2026年7月25日(土)東京・杉並区立方南会館)はその検証かとおもわれるが、こういう形のお笑いもまた趣があってよい。
違う時期に生まれていたら確実にアルファ雄として群れを率いていたのかもしれない。
今時はリアルさこそがエンターティンメントなので、tiktokerのにゅうさんの本気とおもえる泣き笑いもまた人気の所以なのかとおもう。

おつかれSUMMER 明菜復活

以前、よく、ショートでHALCALIの『おつかれSUMMER』の『〽︎ かまってかまって、わたしにかまって』が流れていた。

2003年発表の曲なので、もう23年前になる。

当時はあまり記憶になかったが、いまどきのショートの映像にとてもあっていて、令和の曲かとおもってしまうほどしっくりくる。
時代を経て再びはやる曲が最近多い気がする。
時代が繰り返されている。

『おつかれSUMMER』は改めて面白い楽曲だなとおもう。
あきなちゃんの復活もまた趣深しだ。
いいものなら復活できる。
復活できないものはそれでよい。

ところでWBS(ワールドビジネスサテライト) のエンディングテーマ曲はいつも楽曲センスがよいなとおもう。
誰がディレクションしているのだろう。

ヒューマンエラーにはAI

Amazon配送業者がマンションの宅配ボックスに誤った部屋番号を登録して、配達完了とされ、取り出せなくなった。
Amazon配送ではポストに伝票は投函されないようだ。

宅配ボックスの管理会社も居住者の権限では開錠を拒否するため、受取人は荷物を回収できない状態に陥る。

現時点での唯一の解決策は、マンションの管理人に事情を説明して開錠を依頼し、宛先を確認した上で受け取る方法のみである。
誤登録された部屋の住人に悪意があれば荷物を先に持ち去ることはできる。
あとで管理人経由でクレームを入れ取り返すことはできそうだが、なんて無駄な作業を増やすのか。

Amazonで発注した後、配送業者がAmazon担当となったときの絶望感はこういうところにある。
果たしてスムースに届くのか、勝手に玄関の前に置き配するのか、ポストにはみ出して入れていかないだろうか、いちいち届くまで気にしないといけない。
配送業者がAmazon担当のときだけ、そういうことがある。システムのせいにしてはいけない。
Amazon担当の担当だけがそういうことをする。

現在のAmazonのシステムには委託業者へ直接連絡する手段やこの種のミスに対する明確な苦情窓口がさえ用意されていない。
何度もぐるぐるサイトの中をいったりきたりするだけで、泳がされているのか、エンゲージメントをあげようとしているのかと腹が立ってくる仕組みである。

現行のAmazonはいまだにそういう入力エラーを防ぐ仕組みを実装しておらず、誤登録を許容したまま配達完了にできてしまう仕様で、今時は簡単に改善できるだろうとおもうがする気配もない。
費用対効果で改善する費用を無駄と踏んでいるのだろう。
アマゾン一択の通販業界ではそうなる。

宅配業者による宅配ボックスの扉の閉め忘れなどもよくみるが、これは音をけたたましく鳴らすなどで対応できないのかとおもう。

人間はミスを犯す。
必ずミスをする。
意地でもミスをする。
わざとミスをする。

それを前提にシステムやAIでいかにカバーするかが現代の集合知の役割である。
防犯カメラはそのためにあるし、まだまだ設置台数が足りていない。

AIのミスを人がカバーするという尊大な思想はもう昔話だ。
人はミスをなんとしてでもするから、システムやAIでいかにそれをカバーするかが集合知の集合知たるゆえんかとおもう。

ソーシャルグッドな取り組みを

現代の資本主義は、私たちの思考を支配する「ナラティブ(文脈)」そのものだ。
深井龍之介氏が指摘するように、それは

  1. 労働力の市場化
  2. 金銭動機への一元化
  3. 価値の数値化
  4. 生産人口への依存
  5. 資本の自己増殖

という5つの特徴に規定されている。

このシステムは物質的な豊かさをもたらしたが、今や「本当に意味のある指標の欠如」という壁にぶつかっている。
近年、環境や社会への配慮を測る「ESG投資」が注目されているのも、従来の金銭的リターン以外の指標をシステムに組み込もうとする、資本主義の機能補正の表れと言える。

本能で動く「真社会性」の蟻とは違い、人間は信頼や倫理を共有して協力する「超社会性」の生物だ。
しかし、この超社会性に根ざした幸福の指標はいまだ未確立であり、物差しがないゆえに富の分配や最適化が機能不全に陥っている。

上からの制度や投資マネーの変革を待つだけではなく、私たちは足元から動くべきだ。
ソーシャルグッドな取り組みを自ら提示し、互いに見せ合う草の根の可視化。
この相互開示こそが、ESGの精神を真に血の通ったものにし、資本主義の次なる文脈を紡ぎ出す第一歩となる。

学者はだいたい悲観論者

AIとどう付き合うかを研究者と活用者で議論している。
噛み合っていない部分は視点の違いなのかなとおもう。
研究者は人間があらたにあたらしいことを発見できなくなるという危惧をもっているが
そもそもあたらしいことを発見できなくなるとなぜ言いきれるのかの根拠がわからない。
これはテレビがでてきたときに一億総白痴化といった話とにているのかもしれない。
一億総白痴化といわれた後、昨日亡くなられた利根川進さんなどの人がでてきているので、どの状況であれ、人間はその環境にあわせて進んでいくのではないかとおもう。
学者はだいたい悲観論者なので、そのあたりを踏まえて話を聞いた方がよい。