テレビの討論番組や情報番組で、しばしば見受けられる光景がある。
それは、一部の元教授でテレビタレントの出演者や社会学者を名乗る出演者が、学術的な「通説」と、根拠の薄い「諸説」をまったく対等なものとして並べて議論を展開する姿である。
彼らは結論をあえて曖昧にし、「物事の見方は人それぞれである」「多様な視点がある」といった価値相対主義に話を帰結させ、落としどころを煙に巻いてしまう。
これは、客観性と真実を追究すべき学者としては最低の行為である。
こうした手法は、一見すると「公平で中立な議論」を装っているため、タレントとしての世渡りや、番組を泥沼化させて視聴率を稼ぐエンターテインメントとしては都合が良いのだろう。
しかし、公共の電波を使った言論空間で、この欺瞞的な相対化を放置することは極めて危険であり、断じて許されるべきではない。
そもそもSNSであれば、人々はそれをジャーナリズムとして受け取らず、エンターテインメントの一つとして受け流すことができる。
しかし、ニュースを政府の代行として流すほどの機関が、同じようにテロップもなしで似非情報をエンターテインメント感覚で流すのは話が違う。
それはまるで、台所の水道から「下水の水も混ざって流れることがありますよ」と言われているようなものであり、これではまず料理には使えない。
テレビという社会のインフラが、昨今のマンションの水道の汚さと同じレベルにまで落ちぶれてしまったのだろうか。
というのも、テレビを視聴しているすべての人々が、高度なメディアリテラシーを持ち合わせているわけではないからである。
情報の真偽を見極める訓練を受けていない視聴者や、日々の生活に追われてファクトチェックをする時間のない人々は、画面の中で対等に議論されているのを見て、「どちらの説も同じくらい信頼性があるのだ」と誤認してしまう。
確かなエビデンスに基づく事実と、単なる個人の妄想や陰謀論が同価値として受け止められたとき、社会の共通善や合理的判断の土台は崩壊する。
リテラシーの格差を利用し、視聴者を意図的に思考停止の混乱へ突き落とす行為は、害悪以外の何物でもない。
どうしても番組の演出上、あるいは出演者のキャラクターとして、こうした「何でもありの相対主義」や「逆張り」の議論を消費させたいのであれば、メディア側には果たすべき最低限の責任がある。
それは、画面下部にテロップで「この議論は学術的な事実に基づくものではなく、あくまでエンターテインメント(バラエティ演出)である」と常時、明確な断りを入れることだ。
劇薬を売るなら「毒薬」とラベルを貼るべきであり、娯楽のプロレスを真剣勝負の格闘技に見せかけて提供する詐欺行為は、報道や言論の自由の範疇を逸脱している。
メディアには、大衆の認知を歪ませないための倫理が求められる。
「諸説あり」という便利な言葉で真実を曇らせ、社会を分断・退化させる無責任な言論ビジネスは、今すぐ是正されるべきである。
