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識学と過学習:効率至上主義がもたらす組織の限界と、その「適材適所」

現代のビジネス界で、徹底的なルール化と属人性の排除を掲げる組織論「識学」は、多くの経営者に支持されてきた。
しかし、変化の激しいAI時代に、この管理手法は無視できないバグを抱えている。
それは、統計学や機械学習の世界で避けられる「過学習(オーバーフィッティング)」の現象と完全に一致する。
特定の環境に最適化されすぎたシステムは、未知の変化に直面した瞬間に機能不全に陥るリスクがある。

過去のデータへの「過学習」という罠

統計学での過学習とは、手元にある過去のデータ(訓練データ)にモデルを適合させすぎた結果、新しい未知のデータ(テストデータ)に対する予測精度が著しく落ちてしまう現象を指す。
識学は、過去の成功パターンや現在の環境を「絶対のルール」としてマニュアル化し、組織をそれに過剰に適応させようとする。
しかし、予測不能な市場の激変といった「未知のデータ」が飛び込んできた瞬間に、最適化されすぎたルールは一冷えして陳腐化し、イノベーションを阻む壁へと変わる。
社員から独自のアイデアや属人性を削ぎ落とし、ルール通りに丸くしてしまうアプローチは、変化への対応力である「汎化性能」を失わせるリスクを常に孕んでいる。

識学というシステムが機能しうる限定的な領域

とはいえ、この「過学習」のリスクを孕むシステムも、すべてのビジネスで全く無意味になるわけではない。
市場の変化が極めて緩やかで、決められたルールを寸分違わずに実行することが求められる特定の業界や職種では、今なお一定の合理性を持っている。

例えば、以下のような領域がそれに該当する。

  • インフラ・医療・プラント運営:命や社会の基盤に関わる現場では、個人の「ひらめき」や「勝手なアレンジ」は重大な事故に直結する。
  • 製造業の品質管理やルーティンワーク:均一なクオリティの大量生産が求められる環境では、感情を排したルール厳守が品質維持に直結する。
  • 未経験者を大量採用する定型業務:個人の能力差に関係なく、仕組みの力だけで一律の成果を出せる状態を作る上では、一定の機能を果たす。

「型」を頑なに守り続けること自体がビジネスの前提条件である領域においては、識学のような管理手法もまだ完全に役割を終えたわけではない。

デザイナーの視点:効率的なマニュアルからは「愛される製品」は生まれない

しかし、デザインの現場に身を置く人間として、この思想には強い違和感を覚えざるを得ない。
なぜなら、市場で人々に長く愛され、ブレイクスルーを起こすプロダクトやサービスは、効率的なルールをなぞるだけでは絶対に生まれないからだ。
たとえば、あるスマートフォンのアプリ開発で、仕様書や過去の成功データ(ルール)通りに画面をレイアウトすれば、平均点の製品は最速で完成する。
しかし、それでは競合に埋もれる。
本当にユーザーの心を動かすのは、データには現れない「ユーザーが本当に困っている瞬間」を泥臭く観察し、マニュアルにない仮説を立て、何十通りものプロトタイプを作っては壊すという「一見、極めて非効率な試行錯誤」のプロセスである。
開発者の「もっと良くしたい」という執念や主観(属人性)こそが、プロダクトに命を吹き込む。
人間を機能として縛る組織では、この「良質なノイズ」がすべて無駄として切り捨てられてしまう。

結論:「鉄の檻」を打ち破る、デザイン思考の可能性

私はデザイナーという立場上、人間を単なる「役割(機能)」へと還元し、属人性やクリエイティビティを排除しようとする識学の思想には、根本的な部分で賛成することができない。
人間を社会の流通物や資材、つまり代替可能な「パーツ」として扱うことは、近代資本主義が抱える根本的な問題点そのものである。
マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で予言した、宗教的・人間的な情熱が失われ、非情な合理性のルールだけが人間を支配する「鉄の檻」的状況――それこそが識学の行き着く先だ。
人間を資材として使い潰すシステムは、本来どこかで解決されなければならないはずの資本主義の病理を、むしろ悪化させている。
そして今、AIの台頭と資本主義の限界が重なるこの転換期に、その「鉄の檻」はまさに破綻の時を迎えているのではないか。
これからは、人間を機械に最適化させる古い管理論ではなく、人間を中心に据えた「デザイン思考(あるいはデザイン学)」によってこの構造的欠陥を解決していく方法が、もっと研究され、可能になると信じている。他者への深い観察と共感、そして試行錯誤という人間の「属人性」から出発するデザイン思考こそが、人間を資材から解放し、AI時代に真の豊かさと組織のあり方を再定義する鍵になるはずだ。

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