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鉛筆教育と証拠隠滅の姿勢

小学校、中学校、高校、大学と教育の場では学習時は鉛筆を使用する。
社会人になってメインはボールペンになるが、学習時のような使い方ではなく、日程の記入や打ち合わせ事項を記録するなど、あまり消すということはないのでボールペンか万年筆をつかうのだろう。
消す場合があっても二重線をするか、修正ペンを使うかするだろう。
そもそも打ち合わせの席で、消しゴムを使ってゴシゴシ消したり、修正ペンをつかって自分の行為に集中しているような自分勝手な営業風景を今のところ、見たことがない。

さて、アメリカでは小学校高学年(4〜5年生)や中学校(ミドルスクール)に上がると、一気にボールペン(特に青や黒)の使用が増える。
それまでは日本と同じように鉛筆をつかう。

これには教育方針の違いがあり、欧米では間違えた箇所を消しゴムで消さず、二重線で消して残すことで、自分がどこで間違えたかのプロセス(学びの軌跡)が分かるという考え方があるためだ。
子供のころからそういう教育をしているので、物をはっきりいう、主張するという習慣がアメリカ人にはついているのではないかと、勝手に想像する。
それが良いことかどうかはわからないが、主体性はつくのだろう。

間違ったら消しゴムで消して、証拠隠滅! という習慣をなぜ日本の教育の中に組み込んでいるのか。
いや、そうではなく、鉛筆ならどんどん書いてどんどん消せる、量をこなせという意味なのか。
いやそこまでまったく考えていないのか。

中動態の国民性がここでもつくられている。

中動態、いや、受動態の国民性はAIの時代になると一気にAIの下僕になる素養ができあがっているのではないかという懸念を感じる。

大企業が、行政がひっぱっていってくれるというのはもう遠い日の花火だと思った方がいい。
大企業が栄えるとおこぼれで中小零細企業が潤う(トリクルダウン)というのは幻想なのではないか。

鉛筆は好きなのでいつも持ち歩いているが、オブジェとして好きなのであって、このいつでも消せるという姿勢はよろしくないとはおもう。
しかしながら本に線を引くときはボールペンは躊躇う。
依然として鉛筆をつかっている。
古本で高く売れるからという意識はなく、いま線をひいても、また消すことになるからというのがあるのかもしれない。
決意が足りていない。

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