PREMIERE PRO > WMV9

動画データをWMV9に変換することは現状、マックではできません。
大抵はH.264でいいのですが、サイネージなどで映像を流す際はWMV9での提供を要求されることがあります。
さてOSを変えてウィンドウズで変換するとなればWMV9に変換できるソフトウエアはいくつかありますが、色々と試したところ、やはり真打、PREMIERE PRO9が一番詳細まで設定でき、使い勝手も申し分ありませんでした。
備忘録として記録しておきます。

等覚一転名字妙覚と星の王子様

法華経のことばに「等覚一転名字妙覚」というのがあります。
等覚の先に究極の覚り(妙覚)があるのではなく、究極の覚り(妙覚)は足下にあるという意味です。

デザインをしていくなかでついつい西洋風なものになってしまいがちですが、私自身大阪にいて大阪の環境でデザインをしています。
大阪風にするという意味ではありませんが、自身が吸収し、みている世界をよく見つめ直し、その中で答えをさがせばおのずと足元にその答えらしきものがあるのではないかという、そういうことをおもいおこさせてくれる言葉です。

いい言葉なので目に見えるところに貼っておこうとおもいます。
そういえば愛読書の「星の王子様」が同じことをいっていました。
古今東西で語られるとなるとこれは究極の真理なのかもしれません。

人間の目は5億7,600万画素


ロジャー=N=クラーク氏によると人間の目は5億7,600万画素だそうです(人間が見分けられなくなる最小の幅を0.59分(60分=1度)として計算)。
最高峰のデジタルカメラで7,500万画素ですから、解像度の高さはデジタルのはるか上をいっているということです。

ただ画素数が増えるだけだと受光面積は小さくなりますから(受光素子に外枠があるので、分割すればするほど受光部分は小さくなります)必ずしも画素数が大きい=解像度が高いというわけではありません。

ちなみに地平が完全に水平の場合、目は最大でおよそ50km先まで見えるそうです。
センサーとしての人間のポテンシャルは思った以上に高いのかもしれません。

決め事はすべからく

決め事はすべからく最終結論ではありません。
プログラム言語をみてもそうです。たいていは今のところこれで、という仮に過ぎません。決め事はあくまで、仮なのです。
たとえば真偽値はC言語の場合0が偽でそれ以外は真ですが、Rubyは0が真になっています。正確にいうと「Rubyではfalseとnilが偽で、それ以外は0も真」です。
Javaにいたっては真偽値の型をもっていて条件式はその型でなければなりません。0は整数値であって真偽型ではないので条件式に0と書くとコンパイルエラーとなります。決め事はこのようにそれぞれの都合でなりたっている、だけのことなんです。

何らかの都合でいまそう決めている、もしくは担当者のなんらかの思いつきや文献にかいてあることをもってそうなったということは割と良くあります。
たとえば省エネでのオフィスの室内温度設定28度は何の科学的根拠もなく決められました。1966年の厚生科学研究「ビルディングの環境衛生基準に関する研究」(小林陽太郎)が根拠とされていますが、どこにも28度であることの科学的な根拠は示されていません。
戦前から60年前後にかけての研究です。なんの科学的根拠もない数字が一人歩きしているというのがこの28度の悲劇の真相です。
決め事はこうして決め事になったという例のひとつです。
さて、その根拠は、といったん調べてみることがこれからの時代は大事な気がします。(ここ詳しい調査が紹介されていますのでご興味なる方はご一読ください。)

これからは直感と観察が大事だというのはドラッカー氏の洞察ですが、観察とはそれがそれであるための根拠はどこにあるのか、いわゆる充足理由律を探しながらものを見るということではないかと私は解釈しています。

色の効能

物質に吹き付けられているアナログの ”色” は色材の抽出から得られ、色材は顔料や染料で、その産地情報や技術書は古くから多数のこっています。
産地を記した資料や技術書が多数残っている理由は人々が文化的に意識が高く芸術を愛したからというのではなく、色材の主な役割が医学的効能にある、つまりお腹が痛いのをなおす、など実用性があったからだといわれています。

色がただその耽美主義からの美しさ、癒し、モチベーションの源になって求められている部分は多少あるのかもしれませんが、それよりももっと現実的実践的な効能を人々は色材にもとめていたということです。

茜は黄疸に効き、石黄=雄黄は抜毛に聞くといわれています。ただ石黄は毒性があるため、いまは使用されていません。

科学が発展したためか、現代はあまり色に対して医学的な効能を求める感じはありませんが、それでも例えば青色発光ダイオードは鮮度を保つ効能があったり、自殺を防ぐのに青いライトを環境光として駅舎などにともすなどの効果は認めれられ、今後の活用を待たれています。
色は波長で、水分をたっぷり含んだ細胞は波長の海の中に漂っていると考えると色=波長を安易にかんがえるのではなく、色をどうコントロールするかでもっとよくなることはあるような気がします。

プロクセミックス

隠れた次元という考え方があります。
専門用語ではプロクセミックスといいます。いわばなわばりという感覚です。

同じ時空間の中でのなわばりはなんとなくわかりますが、それをもう少し立体的高次元に考えると同じ時空間にいながら違う次元にいる、そういうプロクセミックスがあるのではないでしょうか。

理解しえない人はこの別の次元、並行する世界の別のプロクセミックスにいます。
ここは理解しあうのは難しいでしょう。

たとえば日本では手まねきが、アメリカでは追いはらう仕草になります。
逆の意味になってしまうのです。
同じ日本人同士でもジェネレーションや行動スタイルによってそれが大きく異なります。
ヤバイってという言葉使いがわかりやすい例です。
年配者にとってヤバイはよくない意味しかありません。
写メで板書をとる、確認事項をとるというのもそうかもしれません。
打ち合わせ中に電話にふつうにでる、商談の席で延々とノートパソコンでメモをとる、電車の中で大声で電話をする、居酒屋に小さい子供をつれてくる…
同じ世界の中にいながらいろんな次元で私たちはいきていて、暮らしていくために次元を超えて交わっています。
次元が同じではなくパラレルワールドの中で私たちは日々交信していると考えてみるとまず衝突するのは当たり前ではないでしょうか。

乗り越えれなくなったプロクセミックス、もしかするとある種の結界、ここになにかいろんなICTのヒントがあるような気がします。

新しい真実をつくり上げる・・・正解だ

本当に追いつめられた時には掟破りの方法をつかうことで窮地を脱するということはよくあります。

『リーガル・ハイ』で行われた別件裁判。
被告にいったん解任された弁護人=古美門弁護士は再び任命されるためにどうしたでしょうか。

被告がどうしたら解任した古美門弁護士を再度選ばざるをえなくなるか。
被告が守っているであろう、被告にとって一番大事な真犯人(この場合は犯人とされる女性、安藤貴和の実の娘)らしき人物の存在を別件裁判で白日の下にさらします。
そのことでその暴いた古美門弁護士を再度弁護人として任命することでしか、真犯人を守ることはできない(別の犯人を仕立てる この場合は犯人のいない、無罪とする)という方法、つまりロックオン(着弾等の照準を固定完了という意味でマーケティングの世界では狙った市場を狙ったとおりに打ち抜く営業手法をいいます)をしかけるのです。

こういう飛び道具的な手法は一般的には水平思考で編み出されます。
相手のルール、この場合は被告・安藤貴和のルールに従ってルールの問題点を明白にし、相手にルールを一貫させること(一貫せざるをえない)で勝負に勝つという方法です。
一貫させないと自滅するであろうルールです。
安藤貴和は娘を守るために犯人であることを選んだのにそれが貫けないという事態が起こるという本末転倒な自体がおこったということです。

古くは『あしたのジョー』でも同じように水平思考の方法がつかわれていました。
ボクシング協会を追放された丹下段平のもとではリングにあがることができない無資格事務所所属の矢吹ジョーはなにをしたか。

当時バンタム級新人王になったばかりで、協会長のジム「アジア拳」に所属している期待の新人、ウルフ金串を記者の目の前でクロスカウンターをつかって相打ちにもっていきます。実力のある選手、この場合は矢吹ジョーを、ボクシング界から消し去るために協会長が丹下段平のジムを有資格事務所として認めないのだという話をつくらせるのです。

当然協会長はそうではないということを証明するために丹下ジムを認めざるを得ません。
新しい事実を作らざるをえない環境をつくる。
そういえば野々村竜太郎元市議会議員が城崎温泉のある人に会うために頻繁に通っているという嘘を逆手にとってその人から野々村竜太郎議員についてある重大な秘密を入手した、などという嘘を取材源の秘匿という手法をつかって詰め寄れば一気に辻褄が合わなくなって時間をそうかけずに逮捕できたのではないかとおもいます。誰もが城崎温泉に彼がいっているなどとおもっていなかったはずですし、記者にはそういう特権があるのに使わない手はありません(2006年、東京高裁は民事訴訟法上定められた「職業の秘密」として保護される余地を認める決定を行っています)。

『新しい真実をつくり上げる。・・・・・・・正解だ』(リーガルハイより)。

大久保利通と山の保安とKGI

明治維新の中心的な人物、大久保利通が京都の嵐峡に立ち寄った際、あまりの山木の荒れ具合に疑問をいだき、土地のものになぜこんなに荒れているのかと聞いたそうです。
土地のものいわく、あなたたちのせいです、と。
山の保安は自然におこなわれるものではなく、人がしょっちゅう山に入り、手当てをして成り立つものです、なのにあなたたち明治政府は保全のためのお手当てをきったから、誰も手入れをしていません、と。
大久保利通はさっそく東京にかえり、勝海舟にその件をきいたら、海舟はうれしそうに旧幕府の方が政府より上だとはなしたそうです。
その後は明治政府でも山の手入れに予算がついたそうです。
司馬遼太郎と武村正義の対談(「日本人の遺言」 p.143)からのご紹介ですが、
これは組織をはかるうえでのKGIのひとつかとおもいました。
組織の現場をみる、現場の荒れ具合を肌で感じる、その中でなぜ荒れているのかを推測し、手当てをしていく。
荒れ具合を推測するための指標、これは職業や現場でいろいろ違うかとおもいます。
その指標をつくるのもやはり長たるものの才覚ではないかとおもいます。
誤りがあればすぐに訂正し、次につなげる、このあたりのスピード感も測ってみると業績との相関関係はあるのではないでしょうか。
ただただ怒り心情の吐露をする、これは非常に非効率で逆にスピードを下げることになります。

建築物的日本文化

日本の代表的な心理学者、河合隼雄氏の中空構造論はとても日本らしく感覚として納得できます。
河合氏いわく、フランスや中国はびっしりと意味が詰まっているのに日本人の考える世界は真ん中がぽっかり空いている構造になっているということです。
芦原義信氏の『街並みの美学』ををよんでいると建築物は中身が空いていないと建築物とはいわないと書いてあって、内部があるから人を自然の脅威から守れる、それが建築物だという話です。
そうなると日本の文化は非常に建築物的で建築物のように中の空洞があって、そこに何かが入ってあって、それをなにか脅威から守っている、そういう世界だということになります。
ハイデガーの「言語は存在の家である」という感覚にも通じるものがあるのでしょうか、
何か日本的なものを表現するのには空洞の感覚、中身を詰めない感じはつかえるのかもしれません。
色即是空はそういうことなのでしょうか。

ゴキブリがでてきたらすぐさまみんなで叩き潰すのが一番早い

会社が小さかったころはゴキブリがでてきたらみんなで叩き潰します。
大きくなるとゴキブリはどういう生物か調べてみたり、退治する方法を研究してみたり、ゴキブリ退治の実行委員会をつくったりします。
気づいたら部屋中ゴキブリだらけになり誰も退治できなくなります。
これは業績不振でGEを追い出された元会長ステンペルのセリフです。

彼は歯がゆくその様子をみていたのでしょうか。組織が大きくなるとみんなで叩こうなんていう号令を聞いてくれなくなるのかもしれません。
零細企業、中小企業も例外ではありません。
ゴキブリがでてきたらすぐさまみんなで叩き潰すのが一番早いんです。
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