生成AIが人間顔負けの文章やアートを瞬時に生み出す時代、私たち人間にしかできない「創造性」とは一体どこにあるのだろうか。
脳科学や哲学の概念である「クオリア(主観的な感覚の彩り)」を軸に、AIと人間の決定的な違いを考察する。
効率や正解だけを求めるAIには決して真似できない、人間の不完全さや「寒さ」を感じる肉体的な痛覚の中にこそ、これからの時代を生き抜く人間の価値が隠されている。
「風流は寒きもの」――緑雨が見抜いた美の残酷さ
明治の皮肉家・斎藤緑雨が放った「風流は寒きものなり」という警句は、現代のAI時代にこそ、より鋭利な毒を持って響く。
この言葉は風流の美を語るふりをして、その実、人間の滑稽な思い上がりを冷笑している。
雪見や花見といった洗練された情緒など、それを解さぬ者にはただの「寒さ」という苦痛であり、痛覚そのものだ。
緑雨の視点は、美が常に残酷な身体的犠牲の上にしか成り立たないことを見抜いていた。
明治という「国家も個人も、背伸びをして理想や美徳を語りたがった時代」の風流を語りたがる富裕層への皮肉である。
陰翳の美とポエム――割り切れない人間の不条理
谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』のなかで、日本人は西洋人と違って厠(かわや)にさえ風流を見出すと書いた。
それは清潔で合理的な空間ではなく、薄暗がりの中で虫の音を聴き、霙(みぞれ)の降る寒さに身を震わせる場所である。
排泄という極めて生々しい肉体現象と、自然の気配が融け合う静寂。
そこに美を嗅ぎつける人間の業は、徹底して不条理だ。
はからずも、現代のデータサイエンティストである成田悠輔氏は自らの営みを、データ、アルゴリズム、ポエム、思想を組み合わせたビジネスと公共政策の想像とデザイン、と解説している。
冷徹な数理モデルの最果てを扱う人間が、あえて割り切れない「ポエム」や「思想」を混在させて自己を定義する姿勢は、数理だけでは決して割り切ることのできない、人間社会の泥臭い不条理に対する批評的眼差しを感じさせる。
無菌室のAIに欠落する「クオリア」という痛覚
一方で、現代のAIが差し出す言葉は、どこまでも無菌室の温もりに満ちている。
膨大なデータから最適化された「美しい表現」を、汗もかかずに瞬時に吐き出す。
しかし、そこには決定的な「寒さ」がない。
冬の朝の凍える空気が皮膚を刺す痛みも、暗がりの厠で覚える心細さも、主観的な感覚の彩りである「クオリア」をAIは感知できないからだ。
AIのアルゴリズムには、寒さに身を震わせる肉体の揺らぎも、不条理への憤りもない。
だからこそ、私たちはさらに質の悪い「詩人」になることで、この高度な機械と差別化していく。
効率的なアルゴリズムが支配する温室のぬるま湯からあえて這い出し、世界の厳しい寒さに肌を晒して、その痛みを言葉に翻訳する。
割り切れない孤独や、排泄の醜さ、人間の愚かしさを、身体という生々しい痛覚を通してすくい上げるのだ。
寒さを生きる詩人たちの価値
どれほどテクノロジーが進化しようとも、人間が世界の「寒さ」に耐えかね、それでもそれを愛おしんでしまうというクオリアの領域に、合理的で冷徹なAIは到達できない。
私たちは進んで風流という名の「寒さ」を引き受け、不完全で、それゆえに毒と血の通った言葉を紡ぐ詩人として生きる。
その無駄で不条理な体温の在り処にこそ、これからの人間の価値がある。
私たちはどこか合理的にはなれない不条理を原罪のように抱えている。
